【シリーズ・歴史に学ぶ顧問】第4回「大村益次郎」
文:ランチェスター社労士 川端康浩
明治維新の軍事顧問・大村益次郎
第4回目の「歴史に学ぶ顧問シリーズ」では大村益次郎を取り上げます。
東京九段にある靖国神社の入り口に立つ「大村益次郎」(おおむら・ますじろう)の銅像。その視線は上野の山方向を睨んでいるといわれています。
この大村益次郎は、侍の装束をしていますが、もとは武士ではなく農民の出身でした。大村は軍の近代化を行って薩長の新政府軍を指揮して、銅像の視線の先にある上野の山で旧幕府軍の彰義隊を壊滅させました。
勝海舟も手を焼いた彰義隊
幕末から明治維新にかけての1868年(慶応4年)2月、新政府軍である薩摩・長州軍が江戸に攻め上がりました。
新政府への恭順の意を示して上野寛永寺に謹慎した最後の将軍、徳川慶喜。その意を受けた幕臣の勝海舟が、新政府軍の代表の西後隆盛と会談を行います。会談の結果、幕府は降伏します。
戦を行うことなく江戸城明け渡しとなり、徳川慶喜は水戸に退去しました。
ところがこの処置に不満を持つ幕臣の武士らが徹底抗戦を叫び、もともと将軍、徳川慶喜の護衛部隊だった「彰義隊」が上野の寛永寺に立て籠もりました。これらの武士は「戦わずして従う」ことを潔しとせず、その数は2000人とも3000人とも言われるように膨れ上がり、新政府軍の薩長の武士を襲うなど江戸の治安を乱しました。
そして江戸開城以降、新政府軍は、江戸を中心に関東各地で起こった騒乱の原因が彰義隊にあると見て、彰義隊の討伐を決断します。
この彰義隊討伐の総司令官が、長州藩の参謀役だった大村益次郎でした。
武士と民兵の混成部隊を正規軍化
大村益次郎の本名は村田良庵(りょうあん)または蔵六(ぞうろく)といい、1824年(文政8年)に長州藩(山口県山口市)で医者の息子として生まれます。その後、防府や豊後日田で蘭学を学び、大阪では緒方洪庵の適塾で洋楽を学びました。成績優秀な大村は3年で塾頭となります。
その後、宇和島藩で兵書の翻訳研究や軍艦設計等を行い、1853年(安政3年)には江戸で自らの塾(鳩居塾)を開塾し評判を呼びます。秀才の評判を聞いた長州藩からの要請で長州藩藩士に移籍して1863年(文久3年)萩に帰国。翌年、兵学校の教師となり長州藩士に兵学を教えるようになります。
時は幕末。1853年のペリー来航から始まった騒乱の中、1864年(元治元年)長州藩が京都で起こした禁門の変への征伐のために、徳川幕府は2度にわたり長州征討を行います。
この時、大村は高杉晋作らが発案した長州藩の「奇兵隊」を発展させ、武士だけでなく町民から農民まで身分を問わない藩単位の正規軍として編成しました。
これは旧来の武士の戦いを覆す概念で、すべての兵が銃を持ち、組織として戦う近代的な軍の組織です。
第二次長州征討では、大村は石州口(現在の島根県浜田市)でこの隊を率いて、10倍の兵力を持つ幕府軍を地の利を活かしたゲリラ戦で撃退します。数で勝る強者と戦う時は、敵を分断して戦う戦略原則に適う戦いでした。
軍事的才能を発揮した大村は、その後の薩長同盟の結成から新政府軍による倒幕まで軍の中で軍事顧問として新政府軍の近代化を推進します。
上野戦争に用いた新兵器
彰義隊討伐の話しに戻ります。
上野の山の寛永寺(現在の東京国立博物館)に籠って徹底反抗を行い、江戸の治安を乱す彰義隊に業を濁した新政府軍は、彰義隊の討伐を決断します。この時の彰義隊討伐の総司令官となったのが大村でした。
江戸城を無血開城したものの、関東各地で旧幕府派の武士たちが不穏な動きを示す情勢上、この戦いは短期で終わらせる必要があり、大村は一人で作戦を立案します。
戦いの場となる地形を見た大村が取った戦略は、武器による圧倒的な量を注ぐ戦略でした。彰義隊が立て籠もった場所は丘陵地の高台であり、戦いにおいては高台に陣を敷くほうが攻撃しやすく有利に、下から攻める側が不利になるのが定石でした。
1868年(慶応4年)7月8日、彰義隊征伐の上野戦争当日。
大村は、彰義隊が暴発して江戸の街に火をつけるゲリラ戦を抑えるために、まず上野の山の周囲を新政府軍に囲ませます。
次にイギリスが開発した当時最新鋭の兵器であったアームストロング砲という大砲を、寛永寺を挟んで不忍池の反対側にある加賀藩邸(現在の東京大学)に配置しました。
このアームストロング砲こそが大村の切り札でした。
7月8日午前7時、雨中のなか、戦闘が開始されます。
新政府軍も彰義隊もお互いに鉄砲を打ち合う膠着した状態の中、その日の午後薩摩藩が寛永寺黒門を突破したのを合図に、ついにアームストロング砲が火を吹きました。
ランチェスター戦略では、戦いの成果は「量の二乗×質」で決まるとされています。
量とは大量の攻撃力の投入であり、質とは武器性能の質です。
質量ともにアームストロング砲は圧倒的でした。
アームストロング砲は不忍池を飛び越えて次々と寛永寺に命中。これまでの武士対武士の戦いの概念を覆す、大砲という圧倒的な質量での攻撃は破壊的ですらありました。
そして、低地からの不利な攻撃概念を覆す、圧倒的な武器性能の前に彰義隊は壊滅します。
戦意喪失した残兵も上野を捨てて逃亡し、わずか1日で上野戦争は終結しました。
この戦いの結果、江戸の治安は安定に向かいます。
その後も大村は急進的な改革を進めますが、武士の恨みを買い、翌1869年(明治2年)8月、大阪の旅館で夕食中に元長州藩士の8人の刺客に襲われ重傷を負い、その傷がもとで同年亡くなりました。
新しい発想で組織を強くする
新政府軍といっても、武士ばかりの軍上層部の中では、農民出身で武士ではない大村は異質であり、古い慣習には囚われない新しい発想がありました。
日本が強くなり、欧米列強と肩を並べるには今までの戦いでは通用しないというビジョンのもとで、身分や出身に囚われない徴兵制による軍の編成や、近代化され組織化された軍隊による戦い、刀ではなく銃や大砲など近代武器による戦いなど、外から来た軍事顧問ならではの斬新な発想がありました。
筆者は経営における外部顧問についても、大村益次郎がなした働きと同じ側面があると考えています。固定観念によって発想が固定化された組織に対して、新しい考えを持ち込み、改革を促すのが顧問の務めではないでしょうか。
執筆者プロフィール
川端康浩(かわばた・やすひろ)
社会保険労務士 アサヒマネジメント/かわばた社会保険労務士事務所代表
人事コンサルの経験を活かしながら経営者と人事向けのランチェスター研修の活動も行う社会保険労務士。会社の強みを活かしたしくみづくりと実践支援が好評で、著書には『会社が得する!社員も納得!就業規則』(ソーテック社)、『一位づくりで会社も社員も変わる ランチェスター経営戦略シート活用のツボ』(セルバ出版)がある。
著書